焼酎の歴史

焼酎の歴史

焼酎

焼酎という蒸留の原理そのものの技術発明は紀元前3500年頃のメソポタミア文明の時代で生まれたといわれています。

最初はお酒などの製造が目的ではなく、花などを原料としてスパイスや香油を作るために使われていたそうです。

が、しかし、この技術発明を経て「いつ、だれが、なぜ、どのように、なんのために」焼酎(蒸留酒)というものが発明されたのかという、事実は解明されていないのです。

これは予想ですが、研究熱心で好奇心旺盛な人物が普通は蒸留しない穀類などを偶然、蒸留器にかけようと試したところ、たまたまアルコール(お酒)が製造出来てしまったという、偶然の産物であるのではないでしょうか。

それを試しに試飲した時、その者は腰を抜かしてしまったのでしょう。

紀元前800年頃から750年頃ぐらいにかけてインドやエチオピアなどで蒸留したお酒が作られていたという事実が判明していますが、これが蒸留酒の起源なのだというような断定は出来ないともいえます。

蒸留技術そのもの自体は、後々に「錬金術」のブームに乗り、ますます磨きがかかっていき、アレキサンダー大王の征服の軌跡に乗って各地で花を咲かせることになるのです。

焼酎の歴史2

歴史

また、紀元前にエジプトで開発されている蒸留機“アランビック”で製造した蒸留酒もあります。

製造方法は、焼酎が日本に伝わってから明治時代に至るまで、“らん引き”と呼ばれる釜状の蒸留機で1回蒸留され るだけの単式の蒸留です。

焼酎の起源の比較的有力な説として蒸留酒が現れるのは11世紀頃になります。

タイ

正確には分かっていないませんが、比較的有力な説は、シャム(現在のタイ王国)から琉球経由でもたらされた、とするものです。

それからどのように伝播していったのかは、正確な資料が存在しないのでまだ確かになってはいませんが、 日本へ伝わってきたのは、14世紀中頃にタイから中国・琉球(今の沖縄)を経由して伝来してきたものが最初だといわれています。

陳侃の『使琉球録』(1534年)に「南蛮(南番)酒」のことが記されており、この南蛮酒は暹羅(タイ)から琉球へもたらされたものであり、醸法は中国の露酒であると記されています。

露酒とは中国の蒸留酒のことです。

現段階で記録に残っているものでは、1404年と1407年に朝鮮の太宗の方から対馬領主宗貞茂へ送られた焼酎が存在しています。

(「朝鮮王朝実録」を参照)

シャムの蒸留酒は更に中東に起源を持ち、アラビア語で「アラク」と呼ばれました。

焼酎は古くは「あらき酒」、もしくは蒸留器を指す「ランビキ(蘭引、英語でalembic、アラビア語でアル・インビーク)」と呼ばれています。

日本国内では文献記録で確認できる限り、少なくとも16世紀頃から焼酎が造られていたとされています。

例えば1546年に薩摩国に上陸したポルトガルの商人ジョルジェ・アルバレス(フランシスコ・ザビエルにヤジロウを紹介し訪日を促した人物)は、当時の日本人が米から作る蒸留酒(原文ではorraqua;オラーカ=アラビア語のアラクに由来するポルトガル語)を常飲していたことを記録に残しています。

まさにこれが米焼酎であるのではないかと考えられています。

ザビエル

そして、この日本についての報告記録は、なんと、日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名となっているフランシスコ・ザビエルから依頼されて書かれたものであり、この3年後に、ザビエルはキリスト教の布教のため鹿児島を訪れているのです。

また、鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社には、永禄2年(1559年)に補修が行われた際に大工さんが残した木片が発見されているのです。

その原文は、

「永禄二歳八月十一日    作二郎
鶴田 助次郎
其時座主ハ大キナこすでをちやりて
一度も焼酎ヲ不被下候 何共めいわくな事哉」

となっており、現代の言葉に翻訳してみると、「焼酎もおごってくれないけちな施主だ」という内容の落書きが伝わっており、焼酎の飲用については日本国内に残存する最も古い文献となっています。

これは予想ですが、この当時の工事に関わった大工さんが、改修工事の間にねぎらいの焼酎の一杯さえも貰えなかった事を愚痴って書いたものなのでしょう。

まだ当時にはさつま芋は日本に伝わって来てはいないので、芋焼酎ではなく米焼酎のことであったのだと考えられています。

芋焼酎の原料であるサツマイモについて説明すると、元々中央アメリカ周辺原産のサツマイモは、フィリピン・中国を経由して、1605年には 琉球へと伝わってきています。

鹿児島へは、1705年に漁師の前田利右衛門が琉球にわたり、山川に持ち帰ってきたのが最初であるのではないかと言われております。

前田利右衛門は、鹿児島県の揖宿郡山川郷岡児ヶ水(おかちょがみず)の出身で、1683年~1707年に生きた推定24歳で若くしてこの世を去ったとされており、海運業の仕事で、たまたま薩摩藩(現在の鹿児島県)と琉球の往来していた利右衛門は、琉球の人々が食べていたサツマイモを見て、鉢植えにして自宅に持ち帰ったのです。

さつまいもにどうすればいもに変化するか繁殖の育て方を研究して様々な工夫を重ねた人物であります。

さつまいもの栽培

琉球ではサツマイモが栽培されており条件が悪い土地の中で成育しているのを見て、薩摩にサツマイモを栽培させることをひらめき、薩摩藩に栽培法をどんどん普及させました。

サツマイモの栽培に成功した利右衛門が、種イモや苗を周囲の農民に配給したことから、サツマイモは最新の食物として庶民に普及していきました。

米の不作で苦しむ飢餓の人々を救った農業功労者でもあります。

土地の事情で米不足であった薩摩では、さつま芋が普及するにつれて自然と芋焼酎が作られていったと考えられています。

戦後の昭和24年、9年間にわたった酒類の配給制が廃止されたのを期に、米や麦を原料としていない焼酎や洋酒類は製造が自由になり始め、焼酎の甲類工場はようやく軍事用のアルコールではなく焼酎生産の本業に復帰したのです。

戦後の食糧難の時代には、お米を使わずに大量生産が可能であった焼酎の甲類は年々伸び続けていき、昭和31年には250,000klと過去最高を記録し、全酒類生産量の約16%を占めるまでに成長していったのです。

酒税法の歴史

日本酒

1560年頃から明治時代中期に至るまでの焼酎は、製造に単式蒸留器を用いており、現代の法体系でいうところの「焼酎乙類」に限られていましたが、明治28年頃にイギリスから連続式蒸留機が輸入され、高純度アルコールが安価に大量生産できるようになっています。

この製法のものが「新式焼酎」として広まり、対して在来の焼酎は「旧式焼酎」と呼ばれるようになっています。

その後、酒税法で「新式焼酎」にあたる「焼酎甲類」と、在来焼酎にあたる「焼酎乙類」の区分が制定されたのです。

近年の焼酎の歴史について説明すると、大正になってから生産量が好調にますます推移しているようです。

大正7年には、米価が高騰する実態が発生し“米騒動”が起こった時、焼酎の甲類はお米を使わない酒として一躍脚光を浴びるようになり、空前の人気になっていきました。

大正始めには焼酎をつくるメーカーが5,6社程度しかありませんでしたが、大正8年には65社までに増加したとされています。

昭和10年から12年にかけては、戦前の焼酎の生産が最高潮に達した時期でもあり、昭和10年には新式(甲類)焼酎の生産は、66,000klにも達しているのです。

これは旧式焼酎(30,000kl)の2.2倍の生産高であります。

しかし昭和12年の日中戦争、16年の太平洋戦争の勃発などで、酒造業界は酒類の配給制の開始を始めとして数々の統制を強いられるようになっていくのでした。

戦後の昭和24年、9年間にわたった酒類の配給制が廃止されたのを期に、米や麦を原料としていない焼酎や洋酒類は製造が自由になり始め、焼酎の甲類工場はようやく軍事用のアルコールではなく焼酎生産の本業に復帰したのです。

戦後の食糧難の時代には、お米を使わずに大量生産が可能であった焼酎の甲類は年々伸び続けていき、昭和31年には250,000klと過去最高を記録し、全酒類生産量の約16%を占めるまでに成長していったのです。